溢れ出てくるものは変わらずの赤。
しかし流れるはずのものが凝固し砕ける様は異様でしかない。

砕けた血を集めようにも、それは塵にもならず淡い光となって空気に溶けていく。
それはまるで溢れたエアルが大気に還るようで―


「これで、いいんだ」
「何・・・?」
「こうするしか・・・なかった」

重ねられたままの冷たい手に、僅かながらも力が込められる。
デュークを見るユーリの目に光はまだあったが、溢れんばかりの生気に満ちたものではない。
ついにはその視線が自分越しに違うものを見ているような気さえもして、デュークは自身の無力差を痛感する。

「わけが、分からないぞ」

ユーリを取り巻く理が分からなくとも、ただその状況だけは十二分に分かっている。
人ならざる様を曝け出している今のユーリを見れば、誰にでもその先は自ずと見えてくる。


「・・・俺は消える」


広い空洞に大きく響いた言葉は、仲間たちの耳にも自然と届いた。
背後で息を詰め、揺らぐ気配にデュークは、心ここに在らずと言ったふうのユーリをきつく見据えた。

「軽々と弱音を吐くな」
「事実だ。隠したって、仕方ねぇ」

死ぬ、ではなく消えると言ったユーリに違和感を覚える前に
それまでは確かな重みがあった体がどんどん軽くなっていくことに気づいた。

腹から溢れて砕けていく血の勢いは治まってはいなかったが
虚無感をも伴う体重の現象が、血が失われたことによって引き起こされているものと考えるには些か不審点が多い。



消える



地に溜まらず空気中へと帰っていく血液、冷たくなっていく手と、存在感を纏わない体。
ユーリの言葉が大きな波紋を生み出し疑問を飲み込み、そして理解した。

ユーリが今まさに迎えようとしているものは「死」ではなく「無」なのだ、と。





「全部思い出したんだ」
「何をだ」

不意に口を開くユーリはゆっくりと存在が薄れていく自分の体に気づいていた。
ゆっくりと手を持ち上げ、こびり付いた血が砕けて空気に溶けていく様子をぼんやりと眺める。

「昔のこととか、自分のこととか、全部」

『自分のこと』と聞いてデュークは思わず目を見張り、自分自身の手のひらを眺めているユーリを見る。

ユーリの中に眠っていたイクレプスの存在を、恐らく当人より早く知ったデュークはそのことをユーリに知らせる事はなかった。
それはイクレプス自身からの願いでもあったためデュークは従ったが
この場において、自分よりも自分の事を理解している者がいた事をユーリはどう思っただろうか。

「そんな申し訳なさそうな顔すんなって・・・別に、怒ってるわけじゃねえんだから」
「しかし、私は・・・」
「いいんだ。誰が何を知ってても、俺はちゃんと思い出した・・・あんたのことも」
「私の、こと?」
「・・・全部だっつったろ?」
「そこに何故私が居るのだ」

ユーリが半濁としていた意識を覚醒させたように目を見開いた。
黒い瞳が小刻みに揺れながら見つめてくる居心地の悪さにデュークは僅かに身じろぐ。

「デュークも覚えてないのか?」
「何を言っている。私は過去にお前と面識など・・・」



『兄さん』



そこまで言って、言葉は途切れる。
何故か耳に馴染む聞き覚えの無い声が一瞬脳裏を過ぎり
目の前で自分の良く知る人の面影を宿す子どもが幻となって笑う。

ユーリの冷たい手が強くデュークの手を握っていることに気づく。
その手をゆっくりと上へと辿れば、驚愕に彩られた瞳を剥くユーリの顔がある。
今になって鮮明に感じる黒とも言い切れない宵闇の髪と瞳に、懐かしさを覚えた。

「・・・ユーリ?」

どういうことだ。

口がそう言う前に薄暗い古仙洞内を柔らかな光が照らす。
仲間たちにとっては見覚えのあるその光は、紛れもなくユーリから発せられていた。

「これは・・・」

最も近くでそれを見ていたレイヴンが辺りを見渡し、そしてユーリに視線を戻す。
その目が細められているのは目映さからではないことをデュークはすぐに理解する。

前触れなどあってないようなものだった。
今のユーリはこの時をいつ迎えてもおかしくなかったのだから。

「・・・っは・・・もう、もたねぇな」

詰めた息を短く吐くユーリの肩を抱き直して頭を持ち上げる。
顔色は已然として蒼白。
しかしその表情に苦しげな様子は不思議と見えなかった。

ユーリは起き上がろうともうろくに動かない体をよじり、デューク越しに漸くカロルらを見ることができた。
体の力は血と共に失われてしまっていて、安定しない上半身をデュークの腕がしっかりと支える。

「カロル・・・ごめんな・・・?」
「・・・・・・っばかあ」

今更安心させるように、真っ先に目があったカロルに微笑んでみせた。
それが強がりと分かっているのだろうか。
くしゃりと歪められたカロルの顔は今にも泣きそうだった。
泣くなよ、とは声にはならず、口元の笑みを深くするだけに留まる。

他の仲間たちにも声を掛けたかったのだろうが、もうその時間すらユーリには残されていないようだった。
くた、と力を失った首に慌てて腕を頭の後ろに回す。

ユーリを中心に溢れる光は治まるどころか強さを増す一方で、その光は静寂を極めた。
視界にはもはや何も映らず、唯一見えるのは輪郭が欠けはじめたユーリだけ。

耳には自分の呼吸音と心音しか聞こえず、デュークはそれに思わず泣きそうになった。


ユーリの音が聞こえない。


「あんたでも、泣くのか」
「―私は、泣かぬ」
「枯れてなんてないのにな」

デュークの心の内を見透かしたようなユーリに、言葉を詰める。
本当に泣きたいのははたしてどちらだろうか。

「逝くな・・・お前には、まだ早いだろう・・・?」

情けない声に、ユーリは今更だと笑う。
しかしその顔も、もう殆どが掠れて見えていない。

「大丈夫だ」

何が大丈夫だ。
お前は何も残さず消えるくせに。
全てを残して、逝こうとしているくせに。



「ちゃんと残していけるから」



だから大丈夫だと言って微笑むユーリ。
デュークの手を握っていた手の感触は刻々と薄れていく。
それが未だ受け入れ難く、デュークは消え行くユーリへと身を迫らせる。


『しかと残していく。お前の記憶と一緒に』


ユーリの声に続いて聞こえた彼の声にはっとして背後を仰ぎ返り、目を見開く。
真っ白な空間に真っ黒な巨体・・・イクレプスがそこに気配を起こさず佇んでいたのだ。

しかしデュークと視線の合ったイクレプスはそれ以上何を語る事もなく、徐々に光に埋もれていく。


「・・・・・ッ、待て!」


しかし、そこで引き止めようにも既に掴めるものなど残っていない。
薄れて消えた彼の姿、それと同時に一気に軽くなったユーリの体に、慌てて視線を戻した。


「―――、」


笑みを浮かべたままのユーリが何かを囁く。
かろうじて聞こえたその言葉の意味を理解するより早く、デュークの手は
縋るようにユーリの体を抱いていたはずの手に力を込めるが、それは既に無駄な足掻きだった。


湛えていた笑顔が掻き消え、先ほどまでは確かに腕の中にあった体も泡が弾けるように消え去る。



ユーリとイクレプスを飲み込んだ光は役目を終えたとばかりに徐々に治まっていく。
光に包まれた時は一瞬だったのだろうか。
静かな光に浮かび上がる古仙洞に戻ってから吐いた息は、とても中途半端だった。









デュークは呆然と、何かを抱いていた形のままの腕を見下ろした。
地面を濡らしそして砕けた血も、もう残ってはいない。
光と、それからユーリと共に消えてしまった。

『残していける』

そう言った二人の言葉を思い出し、ゆっくりと屈んでいた身を起こす。

そしてそこにあったものを見て、デュークは大きく息を呑み体を震わせた。




何も残らないはずのそこには彼らの言葉の通り
清らかな輝きをもつ結晶がひとつだけ残されていたのだから。











こんなことなら、あの時引き止めてしまえばよかった


そうしていればお前はここで命を終えることはなかっただろう?






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実はこの話のラスト
もう他のサイトさんで展開されている

私は遅すぎだ!

 
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